人見絹枝のお墓はなぜ八戸市にも?結婚や家族と子孫も気になる!

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今回注目したのは、日本人女性で初めてのオリンピックメダリストとなった人見絹枝さん。

名前の読み方は「ひとみきぬえ」さん。

「人見」というところの読み方がちょっと迷うところでもありますね。

紅い稲妻なんて呼ばれていました。

出身地は、岡山県御津郡、現在の岡山市南区です。

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亡くなられたのは、なんと24歳という若さの時。

こう若い頃だと、亡くなられた原因や理由も気になるところですね。

肋膜炎で阪大病院別館に入院されたのですが、その後に肺炎を併発してしまい、それが原因と言うか理由のようです。

入院では「軽井直子」という偽名というか変名を使っていたようです。

これは、世間からの注目を浴びることを嫌がってということみたいです。

若くして亡くなられていますが、人見絹枝さんにはオリンピックの出場前、そしてその後に人生上いろんなことがありました。

ところで、日本人で初めてオリンピックに参加したのは管理人と同じ熊本出身の金栗四三(かなくりしそう)さんです。

「日本のマラソンの父」と呼ばれている方です。

この金栗四三さんの活動がNHK大河ドラマの『いだてん~東京オリムピック噺~』で放送され話題になっています。

そのドラマの中では菅原小春さんが人見絹枝さん役を演じていますね。

ちなみに、菅原小春さんはダンサーや振付師として活動されている方です。

本記事では、人見絹枝さんにフォーカスし、出身地は岡山なのにお墓はなぜ青森県の八戸市にもあるの?という疑問や、結婚と家族、子孫についても注目してみました。

その他に、金栗四三さんとの関係や、身長などのプロフィールも紹介します。

また、記念館などの情報についても解説していきます。

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人見絹枝のお墓はなぜ八戸市にもあるの?

人見絹枝のお墓はなぜ八戸市にもあるの?というのは多くの方が疑問に思うようですね。

なにしろ、出身地は岡山県ですから。

人見絹枝さんのお墓は青森県八戸市十一日町の本覚寺にあります。

お墓が出身地でないところにもある理由や原因については確かに誰もが気になるところだと思います。

人見絹枝さんには藤村テフさんという後見役の方がいました。

マネージャーのようなものと考えてよいかと思います。

この藤村テフさんが青森県八戸市のご出身なんです。

人見絹枝さんが亡くなられた際に、この人がその遺骨を分骨して、青森県八戸市十一日町の本覚寺にある藤村家のお墓に納めたという記録が残っているようなんです。

それが、人見絹枝さんのお墓が出身地の岡山県だけではなくて青森の八戸にもあるという理由みたいです。

このことは、青森県の八戸市庁でおこなわれた記者の質疑の中で市長が答えています。

出身地の岡山県ですが、人見絹枝さんのお墓は生地から近いところにある岡山市浜野4丁目の妙法寺にあります。

人見絹枝さんのお墓がなぜ青森県の八戸市にもあるの?という疑問に対しては上のような理由・原因があったのです。

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人見絹枝の結婚と子孫

結論から先にいうと、人見絹枝さんの結婚に関する情報はありません。

結婚されることはなく、若くして亡くなられたのでしょう。

なので、夫や子供はいないということになります。

このようなことから、直接の子孫に関しても同様です。

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生い立ちと家族

生い立ちも興味あるところです。

人見絹枝さんは、明治40(1907)年に岡山県の農家の次女として生まれました。

生家は,岡山県の三大河川の一つに数えられている旭川に近いところに位置し,また海が近くまで打ち寄せてくるという水田地帯にありました。

幼い頃はよく野外で遊んでいました。

家の近くにある川を堰き止めて魚を獲っていたりしてたようです。

そのために、父親に怒られたりしていました。

川いじりよりも算術の方をしっかりやりなさいと。

当時の社会背景からすると、農家の娘が上級学校に進学することは批判の対象にまでなるような時代でした。

しかしながら、父親は将来は人見絹枝さんを女子師範学校に進学させ、教師として自立させることを夢見ていたようです。

確かに学校の成績は良くて、ご自身でも教師として生きていく道を望んでいたようです。

1923年(大正12年)、16歳の時に陸上競技に出会い、1931年(昭和6年)に24歳というかなりの若さでお亡くなりになるまでの8年間、日本の女性陸上選手として日本国内だけでなく世界へも人見絹枝という名を轟かせました。

日本の女性のスポーツへ参加や社会参加へ大きく貢献された方といえます。

家族については、父親は人見猪作さん、母親は岸江さんといいます。

人見絹枝さんは次女なので、姉がいます。

実家は岡山県御津郡福浜村福成(現在の岡山市南区福成)の農家でした。

父親は人見絹枝さん師範学校に進学させて教師にしたいと考えていたようです。

一方、母親は裁縫を習わせ一人前の家庭婦人にしたかったようです。

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出身高校や大学などの学歴

人見絹枝さんの学歴に関しては以下のようになります。

福浜村立福浜尋常高等小学校尋常科(現在の岡山市立福浜小学校):1913年に入学。

岡山県高等女学校(現在の岡山県立岡山操山高校):1920年入学。

幼い頃から活動的でスポーツ好き。

岡山高等女学校へ入学してからテニスを始めています。

テニスは当時の人気スポーツだったんです。

二階堂体操塾(現在の日本女子体育大学):1924年入学。

東京の二階堂体操塾に進学したのは、岡山県高等女学校の校長の強い勧めからでした。

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経歴について

次に、人見絹枝さんの経歴です。

岡山県高等女学校時代に走り幅跳びで4m67cmの日本新記録を出しています。

二階堂体操塾入学後は三段跳びで10m33cmの世界記録。

二階堂体操塾を卒業後は、京都市立第一高等女学校(現在の京都市立堀川高校)体操教師)として赴任したり、二階堂体操塾からの要請により体操の実技講師や研修生となった経歴もあります。

その後、大阪毎日新聞社に入社。

第2回万国女子陸上競技大会に出場し、走り幅跳びで5m50cmの世界新記録で個人総合優勝。

1928年(昭和3年)の日本選手権大会では100mで12秒2、走り幅跳びで5m98cmの世界記録。

また、アムステルダム五輪では日本人女性として初めて出場。

800mを2分17秒6の世界タイ記録を出し、銀メダルを獲得。

第3回万国女子陸上競技大会では選手団団長として参加し個人2位となっています。

スポーツ関係の経歴についてはwikiなどでも詳しく記載されているので、もっと知りたい方はそちらを参照されるといいと思います。

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男性か女性か?という性別に関すること

wikiにも記載されている通り、人見絹枝さんは女性です。

しかし、本当の性別は男性なのではないかという推測もあったようです。

それが、人見絹枝男性説です。

当時、「婦人画報」昭和六年七月号や新聞など、人見絹枝さんが男性なのではないかという記事がたくさん出ていたようです。

とにかくすごい記録をお持ちですから、男性並みみたいな感じで言われていたものの可能性もあるし、画像を見て思いますが、ルックス的なとこからもきているのかもしれません。

また、当時の時代背景というか、女性が陸上をやるということに対してのものかもしれません。

性別の判定にはDNAレベルでの鑑定が必要ですが、今さらそんなに性別を議論することもないのではないかと思いますね。

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記念館はあるの?

人見絹枝さんの記念館は現在ありません。

しかし、チェコのプラハにあるオルシャン国立墓地には人見絹枝さんの記念碑があり、出身地の岡山県営競技場には銅像があります。

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身長などのプロフィール

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最後になりましたが、プロフィールを紹介して本記事を終わりにします。

本名:人見絹枝(ひとみきぬえ)

生年月日:1907年(明治40年)1月1日  1931年に24歳で亡くなられました

出身地:岡山県御津郡福浜村福成 現在の岡山県岡山市南区福成

身長:170cm

体重:56kg

人見絹枝さんには短歌の才能もあったようです。

実際、たくさんの短歌が残されています。

また、「短歌からみた人見絹枝の人生Kinue Hitomi’s tanka and her life 三 澤 光 男Mitsuo MISAWA」という研究もあります。

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