銅鐸の使い方と用途について!目的は?鹿の絵の謎も解説!

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今回のテーマは歴史の教科書や資料集で誰もが一度は見たことがあるであろう銅鐸(どうたく)。

中には土偶の方により興味を持っている方もいるかもしれませんね。

最近では、2015年に兵庫県の淡路島で発見された「松帆銅鐸(まつほどうたく)」により、銅鐸に関しての研究がさらに進展しました。

松帆銅鐸とは?発見の経緯と場所について!年代も解説!
今回は2015年に発見された松帆銅鐸(まつほどうたく)に注目!発見の経緯や場所、分析によって明らかになった年代についても解説していきます。

しかしながら、銅鐸に関してはまだまだ不明な点や謎も多いと言えます。

銅鐸は弥生時代の日本では最高の宝とされていました。

弥生時代と言えば、邪馬台国の女王であった卑弥呼との関連などもすごく興味あるところです。

ということで、本記事では銅鐸にフォーカスし、使い方と用途、目的、鹿の絵の謎をメインにリサーチしてまとめてみました。

さらには、銅鐸の日本における分布と淡路島、そして銅鐸の作り方についても解説していきます。

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銅鐸とは何か?

記事冒頭で銅鐸が弥生時代の日本で最高の宝であったことはすでに説明しました。

しかし、そもそも銅鐸とは何か?

歴史の教科書的に説明すると弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器となります。

原料は朝鮮渡来の銅、鉛、スズのようです。

銅鐸はいわゆるベル型の青銅器で、 その起源は大陸製の小型類品にあったと推定されているが、 大きさや形状、紋様構成などにみられる多くの特色は 弥生時代の日本列島で独自に醸成された。

引用元:東京大学総合研究博物館

管理人が中学時代に思ったのは、なぜ「鐘」ではなくて「鐸」なのかってこと。

銅鐸は写真で見る形状からは「鐘」に見えますからね。

「鐸」とは古代中国の柄付きの青銅器の楽器です。

銅鐸の「鐸」の語源はそれだったんです。

ちなみに、この楽器の音の鳴らし方ですが、柄を持ってもう一方の手に打器を持ち鐸を打ち鳴らしていたそうです。

そういうわけで、名前の由来は、銅製で鐸のような形状から「銅鐸」と名付けられたようです。

しかし、楽器であったかどうかはよくわかっておらず謎です。

銅鐸は吊るして使用されていたようですが、そういうものは本来は「鐘」と呼びますから。

もともとは大陸で動物の首につける鈴として使用されていたものが、九州から他の地域へと渡って行った後に銅鐸へと変化したようです。

土器や石器とは大きく違う輝き具合が特徴の一つです。

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銅鐸の使い方と用途について

銅鐸の使い方や用途についてはまだはっきりわかっておらずに諸説あります。

それでは、このような社会で銅鐸(どうたく)はなにに使われたのでしょうか。

これには、いろいろの説があります。日時計であった、金を精練した、さらには入浴用の湯沸しである、ユダヤの秘法に関係する……といった、珍説奇説も多くありますが、現在最も有力なのは、農耕祭祀(さいし)の祭器(さいき)として使われた、という説です。

米に生きた日本人にとって、最も重要な祭祀は、稲作の祭でした。

引用元:京都国立博物館

銅鐸は約400年(紀元前2世紀~2世紀)の間にわたって製作され使用されてきました。

なぜその期間だけなんだろう?という謎が出てきます。

出現や消滅のバックグラウンドにもたくさんの謎があるんです。

銅鐸は時代が経ていくとともに「聞く銅鐸」からより巨大な「見る銅鐸」に変化していったと言われています。

稲作が始まる前は狩りと採集だけでした。

米が収穫できるようになると生活、特に食生活が安定してきます。

ところが、稲作は人間が制御できない自然環境や気候などの条件に大きく左右されます。

だから、豊作となるように祈りを捧げるわけです。

さらに、稲作はムラの全員で協力しないと出来ません。

なので、ムラの全員がまとまる必要があります。

その象徴となったのが神聖な銅鐸ではないかと考えられたりしています。

ムラのみんなが一箇所に集まって光輝く銅鐸を囲む。

そして、カーンという澄み切って荘厳なその音色に聴き入り、共同体としての意識を強めることに役立ったという説があります。

銅鐸は何回かの大量埋納があったようで、それから急に消滅。

なぜ埋めたのか?

その土地を使用しない間に大地の生命力が宿るように銅鐸を土の中に埋めて保管していたと推定する研究者もいるようです。

紀元3世紀ごろからは、古墳という巨大な墓が造られるようになりました。

ムラからクニへの変化と連動して銅鐸が古墳へと変化していったようです。

クニのレベルになったらみんなで囲むには銅鐸は小さすぎますからね。

使い方や用途もそうですが、銅鐸については現在も謎の部分が多いです。

だから、それらについては諸説あるわけですが・・・。

すべて明らかになるよりは謎の部分が多い方が興味を持つ人も多いだろうし、いろんな議論も出てきて面白いのかもしれません。

今後、さらにいろんな発見などで銅鐸に関することが次々に明らかになっていくかもしれません。

銅鐸だけでも面白い話がたくさんありますから、小中校の社会の教科書や資料集などにもこういう面白い話が記載されれば、もっと歴史に興味を持つ学生が多くなるかもしれませんね。

土偶も気になりますね。

機会があったら記事にしたいと思います。

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銅鐸製作の目的は?

銅鐸は弥生時代に祭りの時に、鐘のように鳴らして使用されていたと考えられています。

稲作での豊作を祝う祭りなどです。

銅鐸に描かれた弥生のくらし

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鹿の絵の謎

銅鐸の中にはその表面に絵が描かれているものがあります。

1997年2月時点での絵が描かれた銅鐸は出土したものの中の約13%。

全体の1割くらいとなります。

臼(うす)と杵(きね)で米をつく人々の絵、米を貯蔵している高床の倉庫の絵。

昆虫や鳥なんかも。

例えばトンボ、カマキリ、クモ、魚をくわえた鳥の絵など・・・。

そのような中、銅鐸の表面に描かれている絵で最も多いのが鹿です。

当時の弥生人が最もたくさん食べた動物がイノシシであったにもかかわらずです。

鹿の生命力が稲の成育を助けるという信仰があったことが理由のようです。

この根拠は奈良時代に編集された『播磨國風土記(はりまのくにふどき)』に記載してある鹿の稲に関する呪術的な儀礼であるようです。

このように農耕祭祀に鹿が重要な役割を果していました。

だから、銅鐸に一番多く描かれている絵が鹿であったようです。

これで鹿の絵の謎が本当に解決したのかはわかりませんが・・・。

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銅鐸の分布と淡路島

 

兵庫県での銅鐸出土数は68点で、日本全国でトップです。

しかも、淡路島だけで21点。

淡路島は海上交通の要で、大陸から九州に伝来したいろんな文物が瀬戸内海を通ってから近畿に入るゲートになっていたようです。

人の往来も盛んであって、九州産の銅剣も入ってきています。

兵庫県、そして淡路島は青銅器伝来の「聖地」として、他の地域の人間が不要になった青銅器をそこに埋めに来ていたなんて説もあります。

銅鐸を地中に埋めた理由や原因などについても諸説あるようです。

銅鐸の日本での分布状況を見ると、出土状況から近畿地方が中心という特徴があります。

近畿地方がメインではありますが、銅鐸の分布に関しては中国・四国地方や九州など西日本でも発見されています。

これまでに日本全国で出土した銅鐸の数は約500個。

2001年(平成13年)3月末時点での主要な出土数は以下のようになります。
*2015年に淡路島で発見された松帆銅鐸(まつほどうたく)の7個などを除く。

兵庫県:56点
島根県:54点
徳島県:42点
滋賀県:41点
和歌山県:41点
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銅鐸の作り方

最後になりますが、銅鐸の作り方についてわかりやすく説明します。

まさか自分で作ろうとする方はいないとは思いますが・・・。(笑)

古代の製法では、銅鐸の鋳型(いがた)は最初は石を彫ったもので作られました。

しかし、後には土を使用するように。

理由は石より土の方が鋳型を加工しやすいからです。

銅鐸製作には、鋳型が2つ必要となります。

まず「外型」を作り、その内側に粘土を詰めて「内型」を製作します。

そして、出来上がった内型の表面を削って、外型との間に隙間部分を作ります。

ここで重要となるのが、「型持(かたもち)」と呼ばれる部分。

数箇所、削り残しの部分を作っておくことで、隙間が一定に保たれる効果があるんです。

銅鐸は青銅器なので青銅が使用されているんですが、鉛が入れられていました。

鉛が入った場合、、青銅の流動性が高くなり、外型と内型との隙間にまんべんなく行き渡るという利点があります。

このように銅鐸の作り方においては薄い銅鐸を製作するために、いろいろな工夫がなされていました。

充分に冷却させ外型を外すと、光り輝く銅鐸が出現します。

最後に不要な部分を切り落とすなどして磨きをかけて完成となります。

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