ノーベル賞受賞は2002年(平成14年)でした。
当時、島津製作所という民間企業のエンジニアのノーベル賞受賞ということで、田中耕一さんはかなり注目され話題となりました。
突然、時代の寵児となってしまいます。
しかしその一方、ノーベル賞につながった自分の発見が単なる偶然だったのではないかというという周囲の声に葛藤を続けてきたようです。
そういったことで、田中耕一さんはノーベル賞を受賞してからメディアの取材を遠ざけてきたそうです。
そして、再び注目され表舞台に登場することに。
それが2018年の2月でした。
アルツハイマー病の発症による脳に溜まるタンパク質の検出成功によるものでした。
このことは、科学誌のNature(ネイチャー)に掲載され、世界的に注目されるという結果に。
この結果が出るまでの田中耕一さんには10年以上の期間に渡る知られざる苦悩があったようです。
その他、出身大学と高校などの学歴、経歴、父親と母親と養子について、留年などのエピソード、名言などにも注目していきたいと思います。
田中耕一のノーベル賞受賞理由と内容
田中耕一さんはノーベル賞受賞者なんですが、正確にはノーベル化学賞の受賞者。
受賞したのはすでに説明したように2002年(平成14年)。
ノーベル賞の受賞理由になったのは質量分析に関するもので、「ソフトレーザー脱離イオン化法」を開発したことです。
内容的には、従来不可能とされていたタンパク質を破壊しないでイオン化させることに世界で初めて成功したというわけです。
田中耕一の現在
田中耕一さんが現在どうされているのかに興味を持っている人は多いと思います。
2018年にアルツハイマー関係の研究で再び注目されるようになったことは記事冒頭で紹介しました。
ノーベル賞受賞当時は島津製作所の従業員でしたが、現在はそこのシニアフェローとなられています。
ノーベル賞を受賞したにもかかわらず、今も相変わらず島津製作所に所属されているってことです。
ノーベル賞受賞後に島津製作所内に「田中耕一記念質量分析研究所」が設立され、そこの所長を現在務められています。
管理職として20数名の研究者を率いておられます。
また、ご自分も1人の研究者として今も自分の研究に取り組んでおられます。
ところで、NHKスペシャル 平成史 第5回「“ノーベル賞会社員”~科学技術立国の苦闘~」というテレビ番組が2019年2月17日に放送されます。
その番組の中で田中耕一さんがインタービューされます。
テレビのインタビューは16年ぶりとのこと。
ノーベル賞の受賞後に新しい研究を開始されたのですが、これまでいろいろな苦悩があったようです。
ノーベル賞受賞後から現在までのことが放送の中でいろいろと語られるのではないかと思います。
要チェックですね!
妻と子供は?
田中耕一さんが結婚されたのは、1995年(平成7年)の5月。
お相手は富山県出身の女性。
ちなみに、見合い結婚です。
お見合いに関してはどうも20回以上されてきたようです。
妻の名前は田中裕子さんといいます。
田中耕一さんと同じ高校のご出身です。
子供さんはいらっしゃいません。
年収が気になる!
ノーベル賞受賞当時のニュースによると、年収は約800万円。
そして、フェロー に昇格して年収1000万円。
現在は島津製作所のシニアフェローなので、当然年収はかなり上がっているのではないかと推測されます。
兼任でいろんな仕事もされていますが、それらも含めて具体的な今の年収の金額ははっきりいって予想できないですね。
1000万円をはるかに超える金額なのかもしれませんね。
出身大学と高校
田中耕一さんのようなノーベル賞受賞者の学歴は気になりますね。
出身大学は東北大学工学部電気工学科です。
大学卒業後には大学院に進学されておらず、学士でのノーベル賞受賞者です。
出身高校は富山県立富山中部高等学校。
学歴としてはその他、富山市立八人町小学校(現在の富山市立芝園小学校)と富山市立芝園中学校を卒業されています。
経歴
経歴については以下のようになります。
略歴として簡単に説明します。
大学卒業後に島津製作所に入社されます。
そして、現在も島津製作所所属です。
ノーベル賞を受賞した2002年にはフェローに就任。
そして、2012年には島津製作所のシニアフェローに就任されています。
その他、田中耕一記念質量分析研究所所長、田中最先端研究所所長も務められています。
東京大学医科学研究所客員教授などの大学関係の兼任もあります。
日本学士院会員で受賞歴も複数あります。
本や論文なども。
さらに詳しく経歴を知りたい方は田中耕一さんのwikiなどを参考にするといいと思います。
父親と母親と養子について
父親と母親は富山県富山市で自営業を営んでおられました。
実母は生後1ヶ月の時に病気で亡くなられています。
そのために叔父夫婦の家に引き取られた後に養子になっています。
兄弟は兄が2人と姉が1人います。
留年していたエピソード
田中耕一さんは東北大学工学部へ進学されましたが、その時に初めて自分の戸籍抄本を読むこととなります。
そして、自分が養子だったことを知ってしまいます。
おじさんと呼んでいた人が実父だったのです。
そのショックでドイツ語の単位を落とし大学で留年してしまいます。
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