こんにちは。
山、自然、魚釣りが大好きな熊本市在住の管理人です。
人間の中にはものすごい人生というか運命を生きてきた方がいらっしゃいます。
そんな1人が小野田寛郎(おのだひろお)さんです。
1942年に和歌山歩兵隊第61連隊に入隊後、情報員として1944年にフィリピンに派遣されルバング島に潜伏していました。
祖国不滅を信じて遊撃戦を30年近くやってこられたということがとにかくすごいです。
1974年に元上官からの任務解除命令を受けて日本にようやく帰還されました。
1974年3月の「小野田少尉 30年ぶりの帰還」というニュースは日本だけでなく世界中が驚きました。
「最後の日本兵」と呼ばれました。
なんせ、戦争中そのままの軍服姿で、厳しい表情をしてテレビの中にいらっしゃったんですから。
そりゃ誰でもびっくり仰天のニュースだったんです。
第二次世界大戦が終わっていたのにもかかわらず、その約30年後に日本に帰還されました。
1974年(昭和49年)のことでした。
戦争が終結後もフィリピンのルバング島に残留されていたんです。
ジャングルの中で1人で戦闘状態にりました。
生活自体も闘いといえるかもしれません。
最終階級は予備陸軍少尉でした。
日本に帰国してからも波乱万丈な人生を送られました。
そして、2014年1月16日に満91歳で亡くなられ人生の幕を閉じられることに。
ドラマにもなって放送がありました。
「実録・小野田少尉 遅すぎた帰還」というテレビドラマです。
ご自身の人生について本当はどう考えておられたのか非常に気になりますね。
その小野田寛郎元少尉について最近新しい資料と関係者の証言で新たな事実が判明しました。
余談になりますけど、管理人が初めて小野田寛郎さんのことを知ったのは小学生の時です。
家に本があったからです。
父親の本でしたが・・・。
その本のタイトルが上の画像の「小野田寛郎 わがルバン島の30年戦争」
何度もなんども読みました。
今もそうですが、管理人的に一番興味を持ったのがサバイバル術です。
そんなわけで今回は、小野田寛郎さんの妻と子供の今現在、名言、自然塾について解説していきます。
その他に、小野田寛郎記念碑の場所とアクセス方法やプロフィールについても紹介します。
余談になりますが、小野田さんが日本に帰還するという舞台裏で日本とフィリピンの両政府が2年にわたって極秘交渉をやっていたことが初公開の外交文書で明らかになっています。
こういったこともすごく興味が湧きますね。
小野田寛郎の妻と子供の今現在
小野田寛郎さんが結婚されたのはフィリピンのルバング島から日本に帰国されてからです。
正確には1976年です。
帰国されたのが1974年なのでその2年後ということになります。
妻となった女性は小野田町枝(おのだまちえ)さんといいます。
小野田町枝さんは後の夫となる小野田寛郎さんの日本への帰還のニュースをもちろん見ていました。
その姿、鋭く光る目、そして潔くて強い信念・・・。
こんな人がこの世にいたんだと感動したそうなんです。
それで心が惹かれていきました。
しかし、残念なことに連絡する手段なんてありませんでした。
ところが、運命というものが2人を引き合わせたのか不思議なことが起こったんです。
ホテルのティールームにいた時に偶然に小野田寛郎さんがいたんです。
それで、いてもたってもいられずにあいさつをされました。
その後、時が過ぎていきましたが、偶然耳にしたのが小野田寛郎さんがブラジルへ移住するという話でした。
この当時いろいろあって小野田寛郎さんが苦しんでいると考え、自分の命を懸けても役に立ちたいという思いから結婚を決意されました。
これが出会ったきっかけと結婚に至った経緯です。
小野田寛郎さんはすでに亡くなられていますが、妻の小野田町枝さんはご存命です。
1937年のお生まれなので、現在の年齢は79歳か80歳となります。
著書があります。
「私は戦友になれたかしら-小野田寛郎とブラジルに命をかけた30年」というタイトルの本です。
それが上の画像。
本だけでなくwikiもあるんです。
管理人は最初は完全な一般の方と思っていたのですが、調べてみるとかなり有名な方でびっくりした次第です。
今現在は小野田自然塾理事、小野田牧場共同経営者、日本女性の会の会長という肩書きをお持ちです。
日本女性の会というのは何かと話題になる日本会議の女性組織です。
子供についてですが、お二人の間には息子さんがいます。
陽介さんという名前ということまではわかりましたが、現在どこで何をされているかなどの詳細は不明です。
ここで妻の町枝さんの学歴や経歴を含めたプロフィールを紹介しておきます。
小野田町枝の学歴や経歴
名前:小野田町枝(おのだまちえ) 旧姓は不明
生年月日:1937年生まれ 今の年齢は79歳か80歳
出身地:茨城県
出身高校:千葉県立佐原女子高等学校
高校卒業後、日産自動車、トーメン、ブリヂストンで働いた後に損害保険代理店を経営されていました。
それと同時に1969年に上智大学(聴講生)で心理学を学ばれています。
1976年に小野田寛郎さんと結婚された後にブラジルへ移住されました。
そして、牧場を開拓し、現地の子供たちのために日本語学校を創設されました。
1989年には小野田自然塾設立され、2006年には日本女性の会の会長に就任され現在に至ります。
ブラジルでの牧場開拓はとんでもなく大変だったようです。
以上が、妻の小野田町枝さんの学歴や経歴などのプロフィールです。
名言について
小野田寛郎さんの名言や格言と言われるものが今だに注目されています。
まとめサイトはもちろん、ツイッターでも名言をまとめたアカウントがあります。
名言と言っても、帰国時のもの、愛国心に関するものなどたくさんあります。
本記事ではその1つ1つをすべて紹介したり説明はしません。
たくさんのまとめサイトなどがあるので、興味がある方は是非チェックしてみてくださいね。
管理人が一番好きなものを紹介しておきます。
「火種は下、薪は上。反対にしては火はつかない。」
自然塾とは?
自然塾とは「小野田自然塾」というものです。
1984年から開講されています。
子供たちへの自然教育推進が目的です。
キャンプ生活をしながら教育していくという活動なんです。
「一般社団法人 小野田記念財団」のホームページの中にその詳細が説明されています。
プログラム、日程、スケジュールなどに興味がある方はサイトを訪問されてみるといいです。
今年2017年のキャンプスケジュールはまだ掲載されていませんでした。
今後はどうなるのかはよくわかりませんが、気になる方は頻繁にチェックするといいです。
2016年のキャンプスケジュールの内容を見ると、サバイバルゲームまであって管理人的にはすごく面白そうに思えます。
その他にも、火のつけ方や飯ごうの使い方はもちろん、夜の森を歩いてみたりとかいろいろな内容があります。
記念碑の場所とアクセス方法
小野田寛郎記念碑というものがあるんです。
この記念碑には「不撓不屈(ふとうふくつ)」という文字が刻まれています。
不撓不屈というのは小野田さんの座右の銘なんです。
旅行情報サイトなどでも紹介されています。
場所は和歌山県海南市小野田917の宇賀部神社にあります。
和歌山県海南市は出身地、生まれ故郷なんです。
アクセス方法については下の地図を参考にしてくださいね。
父親と母親と家族
小野田寛郎さんの父親は種次郎さんといい、県会議員をされていました。
母親のタマエさんは教師でした。
兄が2人に弟が1人います。
長兄の敏郎さんは東京帝国大学医学部と陸軍軍医学校を卒業された軍医将校、次兄の格郎さんは陸軍経理学校卒の経理将校、弟の滋郎さんは陸軍士官学校に入校し航空部隊関係の兵科将校でありました。
兄弟がすごいです!
戦前のスーパーエリートですね。
兄弟が高学歴の現役陸軍将校だったなんて。
両親も学歴が高いことがわかります。
でもですね、小野田寛郎さんだけは旧制高等学校へも進みませんでした。
兄や弟と比べると学歴や経歴の面では家族の中では浮いた存在だったようです。
プロフィール
最後になりましたが、プロフィールを紹介して終りにします。
名前:小野田寛郎(おのだひろお)
生年月日:1922(大正11)年3月19日 2014(平成26)年1月16日に満91歳で亡くなられました
出身地:大日本帝国 和歌山県海草郡亀川村(現在の海南市)
出身中学:旧制海南中学校
中学卒業後の学歴:久留米第一陸軍予備士官学校⇒陸軍中野学校二俣分校
中学時代は剣道で活躍されていました。
中学校卒業後は田島洋行という民間の漆専門の貿易会社に就職します。
その後、中華民国の漢口支店に勤務することとなり、そこで中国語を習得されています。
召集されて陸軍予備士官学校を卒業後に情報将校を育成する陸軍中野学校二俣分校で諜報とゲリラ戦について教育されます。
そして、遊撃戦指導の任務を与えられフィリピンに派遣されました。
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