こんにちは。
今回フォーカスしたのは長谷川等伯(はせがわとうはく)さん。
絵師です。
要するに画家です。
国宝の「楓(かえで)図」という代表作品をご存じの方もいると思います。
活動されていたのは随分と昔で、安土桃山時代から江戸時代初期です。
狩野永徳さん、海北友松さん、雲谷等顔さんらと並び称される桃山時代を代表する画人であります。
今年2017年は「国宝」という言葉が出来て120周年という記念の年になります。
また、国宝という言葉と同じくその年に誕生したのが「京都国立博物館」です。
当時は帝国京都博物館として誕生しました。
「国宝」という言葉と「京都国立博物館」が誕生して120年。
それらを記念して今現在、特別展覧会「国宝」が京都国立博物館で開催されています。
国宝についてNHKや民放のテレビ番組で関連番組が放送されたり、ラジオでも紹介されたりしています。
特別展覧会「国宝」の日程は2017年10月3日(火曜)~11月26日(日曜)です。
興味ある方は時間やチケットなどもチェックしてみてくださいね。
父親と息子という親子で国宝となった障壁画があります。
それらが、父親の長谷川等伯さんの『楓図』と息子の長谷川久蔵さんの『桜図』です。
これら2つの作品は豊臣秀吉の命による作品です。
長谷川等伯さんの子供である長谷川久蔵さんは父親を超える画力を持っていたとも言われています。
そんなわけで今回は、長谷川等伯さんの息子の久蔵さんと妻について、気になる子孫、そして小説についても紹介していきます。
長谷川等伯について
上の画像は長谷川等伯さんの名作「楓図」の漆絵です。
長谷川等伯さんについては記事冒頭でも少し説明しました。
生い立ちや経歴が気になる方が多いと思いますが、そういったことはwikiにかなりまとめられていますので、ここではそれらの概略などを説明していきます。
長谷川等伯さんは桃山時代の天才絵師と言われ、狩野永徳さんの存在をも脅かしていたとも言われています。
国宝にもなっている傑作の作品が複数あります。
「松林図屏風(しょうりんずびょうぶ)」や金碧(きんぺき)障壁画の「楓図」など。
生涯を辿ってみると、ドラマティックとしかいいようのない人生を送られました。
出身地は石川県の能登にある七尾です。
最初は自分のことを信春(のぶはる)と名乗っており、七尾に住んでいた頃は仏画をメインに描いていました。
上洛(じょうらく)したのは30歳を過ぎてからです。
上洛とは、主に京都に入ることです。
入洛ともいいます。
上洛する際に携えていたのは家族(妻と息子の久蔵さん)と筆だけだったようです。
上洛後は肖像画、水墨画、花鳥画など多岐にわたる画題を描きました。
そして、豊臣秀吉に重用されるようになり、時代の寵児となります。
ちなみに、代表作で国宝でもある松林図屏風(しょうりんずびょうぶ)は水墨画の最高峰と言われています。
長谷川等伯さんの宿命のライバルといわれ、よく比較されるのが同時代を生きていた狩野永徳さんです。
狩野永徳さんといえば、100年以上の歴史を持つ名門の狩野家の4代目御曹司でした。
一方、長谷川等伯さんは30歳を過ぎてから能登の七尾から上洛し、実力でのし上がってきた方。
こういうように対象的な生い立ちや経歴を持つ2人ですから、よく比較されるのでしょう。
しかも、当時は狩野一門が全盛の時代でありましたから。
そこに果敢に挑んでいったのが長谷川等伯さんというわけです。
30歳を過ぎて能登の七尾という田舎から上洛して、1代で天下を取る画家になります。
これだけを聞くとものすごい才能があったからなんだろうな~と思うだけですが、実際には違うようです。
バックアップした有力者がたくさんいたんです。
家族と筆だけを携えて上洛した当初はもちろん、画壇に何の足がかりもないわけです。
ところが、長谷川等伯さんは法華信者だったので、そのコネから日蓮宗の高僧やその信者である武将、そして町衆と関わりを持っていくことになります。
また、千利休や大徳寺の僧侶らの肖像画を描くことで彼らと交流するようになります。
当時、権力者の肖像画を描くというのは社会的・政治的な立場が揃っていないと不可能なことだったのですが、長谷川等伯さんはそれを戦略的に構築していったんです。
こうして自分の周辺を固めて強力なバックアップを得られる環境を作っていったんです。
才能だけでは不可能だったのではないかと思います。
そうしたことが大徳寺三門の天井画や智積院(ちしゃくいん)の「金碧障壁画」の誕生へとつながっていきます。
さらに、大徳寺三門の上層に天井画と柱絵などの壁画を描く仕事が長谷川等伯さんに任されました。
その数年後のことですが、豊臣秀吉さんから京都の智積院に伝わる金碧障壁画「楓図」の制作を依頼されることになります。
こうして国宝の「楓図」が誕生することとなりました。
当時のエピソードを1つ紹介しておきます。
金碧障壁画「楓図」が完成した直後のことなんですが、後ほど紹介する息子の長谷川久蔵さんが26歳という若さで亡くなられてしまうんです。
そんな失意のどん底の中で描いたのが水墨画の最高峰と言われる「松林図屏風」らしいです。
なので、この国宝になっている作品には悲しみが漂っているとも言われています。
実際には、「松林図屏風」はいまだに謎が多いそうです。
いつ、誰が、どういう状況で描いたのかについての本当のところはわかっていないようです。
また、父親である長谷川等伯さんは長谷川久蔵さんが亡くなられた後、20年近くも息子への追悼と長谷川家の繁栄を思いつつ絵を描き続けたようです。
そして、1610年に徳川家康に招かれ次男の宗宅さんとともに江戸へ行きましたが、江戸に到着した2日後に病気で亡くなられました。
天才絵師の長谷川等伯さんについていろいろと説明してきましたが、管理人的にはますます興味が湧いてしまったという結果になってしまいました。
息子の久蔵と妻
上の画像は長谷川久蔵さんの名作「桜図」の漆絵です。
息子の長谷川久蔵さんについてはすでに少し説明しました。
国宝の「桜図」が代表作品の1つです。
26歳という若さでの早世です。
亡くなられた原因や理由に興味を持つ人が多いようです。
実はこれには諸説あります。
狩野光信という名門家の御曹司のやっかみから命を奪われたとか・・・。
また、長谷川久蔵さんはもともと病弱だったため、絵に残りの人生のすべてを捧げるべく命をかけたという自らで命を絶ってしまうようなことをしたという説。
実は、異母兄弟である久蔵さんが亡くなられたのと左近さんのの誕生が同じ年なんです。
後ほど解説しますが、有力者の娘の子供である左近さんの誕生が、家の将来を考えていた久蔵さんを追い込んでいったとする説もあります。
ちなみに、こういったことが後の家の内紛へとつながっていった可能性もあるようです。
調べてみると諸説ありますが、結局はよくわかっていないというのが現状のようです。
長谷川久蔵さんは長谷川等伯さんの長男です。
妻の妙浄さんとの間に生まれた子供です。
この方は先妻です。
長谷川宗宅(等後)さんという弟もいます。
妻はもうひとりいました。
妙清さんです。
後妻ということになります。
この方は堺の有力商人の娘さんで、夫の長谷川等伯さんが絶大な信頼を寄せていた京都の本法寺10世で日通上人の親類みたいです。
この方との間には宗也さん、左近(等重)さんという2人の子供もいます。
まとめると、妻が2人とその間に子供が4人いるようです。
妻が妙浄さんと妙清さん。
子供が久蔵さん、宗宅さん、左近さん、宗也さん。
この4人の息子さんたちも長谷川派の絵師になられました。
子孫は?
長谷川等伯さんに関してすごく気になることの1つが子孫です。
結論から先にいうと子孫はいらっしゃいます。
長谷川等伯さんに始まる長谷川派の絵師らが描いたと考えられる数千点にも及ぶ下絵や絵画の模写が 京都市内に現存していることがわかったというニュースの中で名前が紹介されています。
そこに出ていたのが長谷川等伯さんから数えて17代の子孫である仲春洋(なかしゅんよう)さんです。
末裔がはっきりわかっってるんです。
2013年当時の報道をみると京都市西京区の日本画家とのこと。
88歳という記載がありますので、今現在2017年は92歳くらいということになりますが、もしかしたら亡くなられている可能性もありますね。
子孫もやっぱり画家なんですね。
仲春洋さん次男である京都嵯峨芸大准教授の仲政明さんの名前も出ていました。
こういった方々が子孫ということになります。
まだ他にもいらっしゃるかもしれません。
子孫についてもしご存じの方がいたら、教えて頂きたいです。
小説を紹介!
長谷川等伯さんは歴史小説の主人公になったりもしています。
2つあるので紹介しておきます。
1つは萩耿介さんの「松林図屏風」(日本経済新聞出版社)
この小説は長谷川等伯さんとその一門を主人公とした本です。
長谷川等伯さんの生涯に迫っています。
日経小説大賞受賞作品です。
もう一つは、安部龍太郎さんの「等伯」(日本経済新聞出版社、文藝春秋)
上下巻あります。
この本は直木賞を受賞しています。
さらには、漫画まであります。
下元ちえさんの「焔色のまんだら」(リイド社)です。
興味がある方は小説も漫画もチェックしてみてくださいね。
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