渋沢栄一とは簡単に説明すれば?って聞かれたら、やはり「日本の資本主義の父」ってところでしょうか。
第一国立銀行や東京証券取引所、そして大学などいろんなものの設立や経営などに関わってこられました。
91歳で亡くなられていますが、原因は大腸狭窄症でした。
亡くなられてから80年近くの時間が過ぎていますが、業績、功績、経歴、名言など今だに注目され話題になることもしばしば。
経営の神様と呼ばれるピーター・ドラッカーさんが、著書「マネジメント」の序文の中で渋沢栄一の右に出るものを知らないと書いたのも有名な話です。
ところで、1万円札と5千円札と1000円札の3紙幣のデザインが変わるそうなんです。
1万円札紙幣の肖像画が渋沢栄一さんになります。
ちなみに、5千円札は津田塾大学創立者の津田梅子さんで、1000円札が細菌学者で「近代日本医学の父」と呼ばれる北里柴三郎さん。
特に、北里柴三郎さんは管理人と同じ熊本県出身なので、なんかちょっとうれしい気分。
ところで、今現在の紙幣の前って誰だったっけ?って思う方のために、ここで紙幣のデザインの変遷を今回の変更も含めて以下にまとめておきます。
5千円札:新渡戸稲造⇒樋口一葉⇒津田梅子
1000円札:夏目漱石⇒野口英世⇒北里柴三郎
紙幣の肖像画がいつ変わるのかってとこも気になると思いますが、2024年をめどにしているみたいです。
紙幣のデザインが変更される理由や原因、また1万円札紙幣の肖像画がなぜ渋沢栄一さんに変わるのか?
こういったことも気になります。
そんなことも含めて本記事では渋沢栄一さんにフォーカスします。
渋沢栄一とは簡単に説明すればどんな人?
渋沢栄一とは簡単に説明すればどんな人?ってことなんですが、記事冒頭では日本の資本主義の父ってことを記載しました。
渋沢栄一さんは職業的には実業家以外にもいろいろな経歴があります。
幕臣、官僚、そして教育者としての顔も。
様々な企業や学校の設立や運営に関わってこられたんです。
だから、日本の資本主義の父と呼ばれています。
渋沢栄一さんは、あの有名な経営学者で経営の神様とも呼ばれるピーター・ドラッカーさんにも影響を与えたことでも知られています。
名著と言われる「マネジメント」の序文には渋沢栄一の右に出るものを知らないとまで書かれています。
ピーター・ドラッカーさんは渋沢栄一さんに関しての研究もされていたんです。
アメリカの大学では渋沢栄一という名前が入った講座が設置されたり、中国んは「渋沢栄一研究センター」があります。
また、東大や慶応大学などでと記念講座が開講されたりと、亡くなられて80年近く経過しているのにかかわらず、今でも関心が非常に高いです。
多くの研究者の研究対象ともなっていますし。
ところで、幕臣ってどういうこと?って思うかもしれませんが、渋沢栄一さんは江戸時代の武士でもありました。
プロフィールのところでも説明しますが、生年月日は1840年3月16日、つまり生まれたのは天保11年2月13日なんです。
2月13日というのは旧暦であり、太陽暦では3月16日です。
天保は最近話題になっている元号のことです。
そして、1931年11月11日、つまり昭和6年に91歳でお亡くなりになられています。
幕末から昭和初期にかけて活躍された実業家で武士もあったのが渋沢栄一さんです。
2024年に1万円札のデザインが渋沢栄一さんに変わるようですが、そうなったらさらに関心を持つ人が増えそうですね。
渋沢栄一の名言と夢七訓について
渋沢栄一さんの名言に関して興味関心を持つ人はかなり多いようです。
管理人もそんな中の一人。
ここでは、渋沢栄一さんの名言の一つと言われ有名な夢七訓を紹介します。
この夢七訓なんですが、実は本当に渋沢栄一さんによるものかはわかっていないそうなんです。
原典が確認されておらず不明ということです。
でも、内容的には渋沢栄一さんが語ったものとして別におかしくもないとは思うんですけどね。
渋沢栄一が作った会社の今現在と一番最後の会社
渋沢栄一さんが設立や経営に関係した会社の数は約500、そして社会公共事業としては約600の団体。
そういった会社や団体が今現在どうなっているのか?ということは非常に興味あるところだと思います。
合併や国有化、社名変更などありますが、会社(約500)だとその約6割が何らかの形で現在も事業継続中です。
約3割が解散など。
そして、1割が不明となっていますが、消滅してしまっているというのが本当のところみたいです。
渋沢栄一さんがが一番最後に作った会社は1928年(昭和3年)に設立された「日本航空輸送会社」です。
渋沢栄一が設立した第一国立銀行は今どうなっている?
渋沢栄一さんが設立した第一国立銀行が今どうなっているのか知りたい人もいると思います。
結論から先にいうと、現在のみずほ銀行になっています。
第一国立銀行は、渋沢栄一さんにより明治29年(1896年)に日本で初めて設立された商業銀行です。
その後、株式会社第一銀行と改称⇒日本勧業銀行と合併して第一勧業銀行⇒富士銀行と日本興業銀行との合併⇒みずほ銀行となっています。
生い立ちと家族
渋沢栄一さんの生い立ちや家族についても説明しておきます。
出身地は、武蔵国榛沢郡血洗島村で、ここは現在の埼玉県深谷市血洗島となります。
1840年3月16日(天保11年2月13日)に「渋沢・中ノ家」で長男として生まれました。
渋沢家の宗家です。
農作、養蚕、金融業などいろいろと営んでいました。
渋沢栄一さんの生家である旧渋沢邸「中の家(なかんち)」は深谷市血洗島にあります。
幼名は栄二郎。
その後は、栄一郎、篤太夫、篤太郎と名乗ることも。
父親の名前は、渋沢市郎右衛門元助さんで、母親はエイさん。
父親は学問を好む厳格な人で、母親は非常に慈悲深い方であったようです。
実家は村で1、2番という富農・豪農で、父親の代になってからは藍玉の製造販売に本格的に着手したそうです。
藍玉というのは、タデ科植物の藍からつくる染料です。
このような家族や家庭で渋沢栄一さんは育ってきました。
兄弟に関しては不明です。
いないのかもしれません。
お墓はどこにある?
渋沢栄一さんのお墓は、東京都台東区谷中7-5にある谷中霊園の渋沢家墓所にあります。
余談になりますが、谷中霊園には徳川慶喜の墓もあります。
食事をチェック!
91歳でお亡くなりになられた渋沢栄一さんなんですが、当時としては非常に長生きと言えると思います。
そこで管理人が興味を持ったのが好きな食べものや朝昼晩の食事メニュー、お菓子等の間食など。
朝食、昼食、夕食のメニューに関しては公益社団法人 渋沢栄一記念財団のホームページで説明されていたので、それを引用させていただきます。
1916(大正5)年の渋沢栄一の言葉によると・・・・
甘味や脂肪分の多い食べ物を好み、時々お菓子をいただくこともあったそうで、晩餐では、天ぷらや鰻、けんちん汁、野菜(ナスやお芋)を食べていたそうです。朝昼晩のお食事を紹介すると・・・・
朝は、オートミール(ミルク、砂糖入り)とスープ、半熟卵2個、トースト2枚、紅茶と果物を食べます。昼は、洋食。晩は、日本食であれば、常盤、新喜楽、瓢家の料亭で、洋食であれば、帝国ホテル、築地・上野の精養軒、中央邸で会食をされていたそうです。
プロフィール
ここまで渋沢栄一さんに関することをいろいろと解説してきました。
本記事のタイトルに「渋沢栄一とは簡単に説明すればどんな人?」という文が入っていますが、渋沢栄一とは簡単に説明すれば・・・というのは実際には非常に困難なことです。
最後になりましたが、略歴と言うかプロフィールを紹介して本記事を終わりにしたいと思います。
名前:渋沢栄一(しぶさわえいいち)
生年月日:1840年3月16日(天保11年2月13日) 1931年(昭和6年)11月11日に満91歳でお亡くなりになられています
出身地:武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市血洗島)
渋沢栄一さんの出身地が現在の埼玉県深谷市血洗島ってことで、深谷市では命月の11月が「渋沢栄一記念月間」に指定されており、毎年イベントが開催されています。
また、埼玉県には「渋沢栄一賞」というものもあります。
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