こんにちは。
今回フォーカスしたのは間宮林蔵(まみやりんぞう)さん。
名前を聞いたことや見たことがある方は多いと思います。
社会の勉強、特に日本史で。
日本史の資料集なんかでもそうだと思います。
詳しくはのちほど・・・。
さてゴールデンウィークが始まりましたね。
ゴールンウィークと言ってもどこかに泊まりで遠くに旅行に行く訳では無いのですが、
近所の施設を遊びに行く程度です。
しかし、昨日は動物園に行きましたが車がかなり混んでしましたね。
やはり連休中は混みます!
連休中はあまり遠出をしないで、家でのんびり過ごすのも良いかと思います。
さて、昨年は北海道に旅行に行きましたが、5月か6月位に行くのが最高です。
飯も上手いし、適度に温かいです。
ところで、記事冒頭でも紹介した北海道との関係も深い間宮林蔵をご存知でしょうか?
歴史の教科書でも習ったことがあるかと思います。
江戸時代後期に北海道や樺太を活躍した探険家であり測量家です。
「間宮海峡」を発見した人物でもあります。
また樺太(サハリン)を探索し、世界で初めて詳細な樺太の地図を作った事でも知られています。
地図といえば、伊能忠敬さんも思い出します。
今回はみなさんの復習の意味。
そして知って得する情報をお伝えしたいと思います。
ということで、間宮林蔵の子孫と先祖、家系図、そして晩年をメインに解説していきます。
間宮林蔵の子孫
間宮林蔵は、冒頭でも述べたとおりアイヌ(北海道)に関係があった人物です。
当時はアイヌはまだまだ未開の地だった事もあり、飛行機やネットはもちろん無い。
電車や車などの交通機関も無く、移動手段はおそらく馬や船だったかと思われます。
さらに北海道の上に位置する樺太ですから、何といっても極寒の地。
探索や探検もなかなか命がけで幾度となく危険な目にもあった事かと思われます。
さて、そんな偉業を成し遂げた間宮林蔵の子孫が気になります。
実は間宮林蔵は、結婚しようと思っていた故郷茨城の女性がいたそうなんですが、お亡くなりになったそうで、結局、結婚はしておらず生涯独身でした。
養子には、間宮鉄二郎という人物はいましたが、当然、実子では無いです。
実の子供はいないというのが一般的で、長年子孫はいないだろうと思われていました。
しかし、蝦夷地で任務に当たっていたころの話ですが、1813年に上川のタナシ(旭川市北東に位置する当麻スカイパーク付近)というところで、アイヌ人の女性と知り合い、交際していたそうなんです。
翌年には娘が生まれています。
その彼女といって方がいい女性の名前がアシメノコ、娘の名前がニヌシマツという方だったそうです。
そして、その娘の子孫が今現在も北海道に住んでいるとの事です。
そのことが間宮林蔵顕彰会の調査によって判明したそうなんです。
名前は間見谷喜昭さん。
旭川市出身。
78歳ですでにお亡くなりになられていますが、間宮林蔵の五代目にあたります。
残念ながら6代目に関する情報は見つかりませんでした。
先祖は?
間宮氏は近江の出身と言われています。
戦国時代に後北条氏に仕えた宇多源氏佐々木氏がいたのですが、その分流にあたるのが間宮氏だったそうで、佐々木氏が先祖とも言われています。
先祖は武士だったのです、戦いに敗れて農民になってしまったそうですよ。
家系図について
間宮林蔵の家系図はあるのでしょうか?
実際には、子孫についてはアイヌ人との間に生まれた子供がいますが、正式ではなかった(今でいう隠し子?)ので、家系図には残っていないと思われます。
そうすると、アイヌ側で生まれた五代目にわたる間見谷喜昭さん側の家系図ですが、一般的には公開されていません。
きっと五代目にわたるので膨大な子孫が沢山いて、かなりの豊富な家系図があるかと思うのですが、プライベートに関する事なので、一般的には解らないです。
あるとすれば、養子の間宮鉄二郎ですが、この方に関する子孫の情報も見当たりません。
また先祖に関してはどうでしょうか。
農民の子供だったので、あまり記録は残っていないのかしれませんが、父親の名前は庄兵衛。母親は、クマという名前でした。
詳細は省略しますが、その前の先祖に関しては有力な説もあります。
ただ先祖は、戦いに敗れ武士から農家に成り下がってしまっており、詳細な家系図は探す事は難しいかと思います。
晩年
間宮林蔵は、樺太での探索などが終わった後は、幕府のスパイを担っていて、全国各地に赴いていたんだとか。
変装もかなりうまかったそうで、多くの成果をあげたそうです。
しかし、晩年はだんだん加齢とともに衰弱していったそうで、そのような仕事もできなくなってしまいます。
結局1844年65歳のときに、江戸の自宅で病気により他界されています。
お亡くなりになった原因や理由には諸説ありますが、その一説には、梅毒が原因とするものがあります。
以上、晩年でした。
プロフィール
最後にプロフィールを紹介して終わりにしたいと思います。
社会の教科書や資料集などでも名前だけは見たり聞いたことがのある間宮林蔵ですが、1780年農家の長男として生まれます。
場所は、常陸国筑波郡上平柳村。
ここが出身地です。
現在の茨城県つくばみらい市上平柳です。
名前というか本名は倫宗(ともむね)。
実は当時としては珍しく一人っ子でした。
というのも、なかなか両親は子宝に恵まれなかったそうで、ようやうく生まれた子供だったそうです。
父親も母親もさぞ心配したりしたでしょうね。
また、生まれてからは溺愛されたかもしれません。
両親の愛情を受けて育った間宮林蔵ですが、農業だけでは生活が難しく、箍職人としての仕事も兼務して家計を支えていたそうです。
家の貧しい生活を見ながら幼き日の間宮林蔵は両親をみながらいつか立身出世したいと思うようになったみたいです。
ちなみに、上の画像は間宮林蔵の生家です。
実は幼いころから神童と呼ばれていて、頭も良かったそうです。
当初は利根川の堰を作る事が業務だったそうですが、その仕事ぶりが幕府の役人にも評価され蝦夷の調査測量任務にも抜擢されたそうです。
間宮林蔵が初めて蝦夷地に渡ったのが、19歳の時。
その評価された理由とは、地理や算術の能力です。
農家から江戸の役人に起用される。
それは実力ひとつで勝ち取ったものでした。
見事ですね。
当時千島列島は、ロシア人の南下が見られ、日本が危険にさらされているのでは?と心配する人も多かったそうです。
樺太調査が目的だったのですが、ロシアの動向調査の意味も強かったそうです。
そんな重役を任されていた間宮林蔵。
幕府からも信頼があったのでしょう。
また、期待も。
日本史で恐らく習った人も多い日露和親条約締結ですが、これに関しては間宮林蔵の知識が有利に働いたこともご存知でしょうか?
間宮林蔵がどこまでも優秀であったのかがこれでも解りますね。
一度は聞いたことのある間宮林蔵。
農家生まれの貧しかった過去からの出世。
そして、アイヌとの間に生まれた子供とその子孫には驚きました。
歴史には残らない裏の顔もあるんですね。
今後も間宮林蔵に関する詳細な情報が出てきたら更に情報をアップデートしていきたいと思います。
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