こんにちは。
朝は曇っていたのに晴れだして暑くなってきた熊本市在住の管理人です。
8月の終りに毎年放送される恒例の番組が「24時間テレビ」ですね。
ずーっと本当に24時間見続けている人もいるかもしれませんね。(笑)
管理人が注目しているのがその番組の中の「愛~これが私の生きる道~」です。
その中で紹介される1人が女性医師の延浩子(のぶひろこ)さん。旧姓は「稲田」です。
がんの男性と結婚されたんです。
その方が夫の延哲也さん。
45歳というあまりにも若い年齢で亡くなられました。
癌の男性と結婚する理由が気になります。何らかの決意があったはずです。
延浩子さんの決意とは?
そして、夫が残した最期の言葉とは?
では、早速本題に入ります。
延浩子と夫の哲也さんについて
延浩子さんと結婚して夫となったのが延哲也(のぶてつや)さん。
福岡県の大川市で高校教師をされていました。
生い立ちや経歴が衝撃的だったんです!
延哲也さんは13歳、中学1年の時に小児急性骨髄性白血病になったんです。
今でこそ約7割の患者さんが治ると言われる病気なんですが、当時の長期生存率はとんでもなく低いものでした。
当時の治癒率に関しては2割という低さ。
3年にも及ぶ大変な治療でした。
壮絶といってもいいくらいの治療に耐えられたんです。
そんなことがあり、闘病生活は大変つらかったと思います。
それに13歳になっていましたから、自分の人生などについて真剣にいろんなことをかなり考えたんではないかと思います。
また、自分のことだけでなく家族のことも。
父親や母親、そして兄弟・・・。
そんな中で、今後はできるだけたくさんの人と関わっていきたいと考えるようになったんです。
そして、その目的を達成するために自分が出した結論は教員を目指すことでした。
ここで、延浩子さんの夫の延哲也さんの学歴や経歴について説明します。
延哲也さんは大学を卒業後に福岡県八女市にある西日本短期大学附属高等学校の教員になりました。
担当科目は社会科です。
人柄が朗らかで、学生からは「のぶちゃん」の愛称で呼ばれるほどの生徒から愛されるような教師でした。
高校では小児急性骨髄性白血病になった経験を学生たちに話すことはありませんでしたが、1998年に小児がん経験者の会である「スマイルデイズ」を発足させました。
「スマイルデイズ」というのは、自分と同じように久留米大学病院で小児がんを治療した仲間同士で支え合おうというグループです。
その2年ほど前に毎日新聞は「生きる」という名称の小児がん征圧キャンペーンをやったんですが、これがきっかけとなり小児がん経験者のキャンプが開催されるようになりました。
延哲也さんはそのキャンプに何回も参加しています。リーダーとなってキャンプを盛り上げたりしたこともありました。
2009年、当時38歳の時大腸に2次がんが発見されたんです。
小児がんの時におこなった強い治療の影響の可能性も考えられました。
その頃は高校で2年生の担任をしていました。
それで、ホームルームの時間に病気のことをクラスの生徒達に告白し、元気になって必ず戻ってくると約束したんです。
生徒の中には涙を流す者もいました。
そりゃ当然でしょうね。
話す方も聞く方も辛すぎます!
39歳の時にはがんが再発しました。
それだけでも精神的・肉体的に大変なのに、その頃に延哲也さんの母親が亡くなってしまうという非常に悲しい出来事も起こりました。
相当のショックを受けてしまって、もう治療なんかしなくてもいいかなと弱音を吐くほどの状況になってしまったんです。
その時に励まし、そして支え続けたのが後に妻となる延浩子さんだったんです。
結婚した理由と子供について
延浩子さんは延哲也さんが20歳くらいの時からの主治医でした。
出会ったきっかけは、20歳を過ぎた頃に治療の経過観察をしてくれる主治医となったのが延浩子さんだったということです。
自分のがんという病気だけでなく、母親が亡くなるというダブルのショックで気も弱くなっていた延哲也さんのことを考え、励まし支えるということをやっていました。
そして決意することになったんです。
それが、自分が延哲也さんの面倒の責任を持つということでした。
妻となって支えていくという決意でした。
それで、2014年に延浩子さんと延哲也さんは結婚しました。
当時、稲田浩子さんでしたが結婚して延浩子さんとなりました。
これが結婚の理由です。
がんの治療をおこないながら学生に授業をおこなう延哲也さんのそばに寄り添ってました。
昨年2015年には契約が切れて高校を退職されました。
延哲也さんはNPO法人の理事をされていたんですが、その法人での勧めで今年2016年の3月に330人以上の教え子たちの前で「最後の授業」をおこないました。
44歳になってました。
その後にたくさんのメッセージが寄せられたんですが、応援しているとか励まされたというような内容のものでいっぱいでした。
今年の5月に自宅で取材に応じられて、教師を目指した頃と変わらないような自分の思いを述べられました。
自宅で亡くなられたんですが、最後は笑顔だったそうです。
最期の言葉は、生きるということはたくさんの人と関わりつつ、できるだけ笑っていること。自分もそうやって生きていきたいというようなものでした。
45歳でした。
高校退職後は在宅緩和ケアを受けていたんです。
延浩子さんと延哲也さんのことを知って、出会いや人生について考えさせられた管理人であります。
本記事を書いている今日は2016年8月28日。
延哲也さんが亡くなられてちょうど3ケ月くらいになります。
『24時間テレビ「愛~これが私の生きる道~」』で延浩子さんは夫の延哲也さんの思いを受け継ぎ、がんとともに生きるという思いを伝えていくことを述べられるそうです。
決意を語るってことなんでしょうね。
子供に関しては全く情報がありませんでした。
最後まで妻の延浩子さんに支えられてしっかりと生きていくのが精一杯だったので、子供はいないのかもしれませんね。
それと、現在の年齢は54歳なんですが、結婚当時すでに50歳を越えていましたから、そんなことも子供がいない理由だと思います。
出身大学と高校は?
延浩子さんの出身大学は、久留米大学医学部です。出身高校についてはわかりませんでした。
医学博士の学位は久留米大学で取得されています。
延哲也さんと出会った頃は久留米大学病院の小児科の医師だったようです。
大学病院のホームページには結婚前の名前の稲田浩子で記載があり、「助教」になっています。
助手みたいな肩書きだったってことなんでしょうね。
現在は、佐賀市嘉瀬町にある地方独立行政法人「佐賀県医療センター 好生館」で小児科の部長をされています。
専門は小児がんです。
だから、夫になった延哲也さんと出会うことになったんです。
日本小児科学会専門医、日本血液学会専門医、日本小児血液・がん学会暫定指導医という認定資格をお持ちです。
以上が、延浩子さんの学歴や経歴などのプロフィールとなります。
お二人の出会いと人生について調査した結果、小児がんの知識を得て、また認識も変化した管理人です。
これまで、小児がんには間違った認識や偏見があったようです。
報道などがあんまりないことも原因の一つかもしれません。
「不治の病」だと今でも思っている人が多いようですが、実際には小児がん患者の半数以上は治るそうなんです。
しかし、それらが解消される方向に向かっています。
もちろん、治療が大変なのは確かだし、小児がんが治った後に二次がんになる方もいます。
こんなことも含めて世間がもう少し関心を持つことが今後の課題の一つだと思います。
社会的な支援などもそうです。
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