こんにちは。
美術というか芸術というか、そっち系ってあんまり関心がないんですが、陶芸に関しては非常に興味があるんですよね。
なぜかはわかりませんが。
政治家であり陶芸家でもある細川護煕(ほそかわもりひろ)さんのことを急に思い出してしまいました。
単に管理人が住んでいる熊本県の知事を務めていらっしゃったことがあったからです。
ところで、今回フォーカスするのは板谷波山(いたやはざん)さんという陶芸家。
本名は板谷嘉七(いたやかしち)さんと言います。
日本の近代陶芸のパイオニアであり、陶芸家としては初めて文化勲章を受章し方なんです。
代表作品の1つは近代陶磁器では初めて重要文化財に指定されました。
そんな陶器がすごく欲しい管理人です。
そんなわけで今回は、板谷波山さんの妻と子供、代表作品や気になる値段、そして経歴やプロフィールも紹介します。
その他に、独自に編み出した「葆光釉(ほこうゆう)」とは何かについても解説します。
後ほど紹介しますが、生い立ちなどの生涯は映画にもなっています。
実物を美術館や展覧会で実際に見てみたいものですね。
出身高校や大学等の学歴や父親や母親も気になるところです。
板谷波山の妻と子供
妻の名前は板谷まるさん(1870~1958年)といいます。
板谷波山さんの才能を見抜き、そして信じて世界的な陶芸家となるまで育て上げたのが妻だったのです。
1870年(明治3年)に呉服商である鈴木家の三女として生まれました。
共立女子職業学校(現在の共立女子学園)のご出身で、裁縫などとともに日本画を学びました。
会津女子職業学校を自分で創立し、そこで主任教師として裁縫や手芸を教えていました。
結婚後は経営を譲っています。
板谷まるさんは瓜生岩子さんという社会児童福祉の先駆者に師事していたんですが、そのお孫さんに板谷波山さんは後に妻となる板谷まるさんを紹介されたんです。
日本画を描かれていたまるさんは、さきほども説明しましたが、板谷波山さんの才能を見出し、自分自身の職業婦人としての生き方を捨ててまでして結婚されました。
この後に、夫となった板谷波山さんは陶芸家となるべく上京しますが、後ほど詳しく解説するように苦しい生活を妻とともにします。
初窯での成功や勧業博覧会への入選があったにもかかわらず、その後も厳しい生活は続きました。
夫が焼いた食器を妻が売り歩いたりとか陶器の下絵を書いたりして妻の板谷まるさんは頑張って家計を支えてきました。
というか、夫婦二人で力を合わせて頑張られました。
1911年(明治44年)の夏には夫婦二人で皇后陛下に招かれて御前制作をするまでになっていました。
参内した時のまるさんの服装は普段着だったそうで相変わらず経済的に苦しいものがあったんです。
そして、1930年(昭和5年)にフランス大統領から勲章を贈られます。
また、その後には文化勲章を受賞。
このことでようやく世界的な陶芸家として夫が認められました。
妻として夫のために頑張ってこられた板谷まるさんですが、ホッとされたのではないかと思います。
夫を超一流の陶芸家に育て上げたと言われるだけのことはありますね。
子供さんはどうやら4人いるようです。
息子さんなのかとか娘さんなのかとか等の情報は特にありませんでした。
子供さんの中には父親と同じ陶芸家への道を進まれた方もいるかもしれませんね。
お子さんたちがそれぞれどのような人生を歩まれたのかも気になるところです。
代表作品や値段
後ほど詳しく説明しますが、板谷波山さんの経歴ってものすごいです。
結局、辞退されましたが人間国宝の候補にもなっていたくらいですからね。
なので、管理人のような陶芸のド素人でも代表作品や値段が気になるのは当然かと思います。
価格はものすごいんだろうなとは予想できます。
代表作については以下のようになります。
① 葆光彩磁珍果文花瓶(ほこうさいじちんかもんかびん) :1917年(大正6年)
その名の通り花瓶です。
板谷波山さんの作品の中の最高傑作の一つとされています。
国の重要文化財となっており、泉屋博古館分館が所蔵しています。
この作品は今現在、泉屋博古館の京都本館で開催中の特別展 である「浅井忠の京都遺産―京都工芸繊維大学 美術工芸コレクション」 展で展示されています。
超絶技巧を間近で実際に見てみたいものですね。
2017年9月9日(土)~10月13日(金)の東京展でも展示されそうです。
② 彩磁禽果文花瓶(さいじきんかもんかびん) :1926年(大正15年)作の花瓶です。
①と同じく国の重要文化財で、敦井美術館所蔵となっています。
③ 彩磁延寿文花瓶(さいじえんじゅもんかびん) :1942年(昭和17年)作のこれまた花瓶。
出光美術館が所蔵しています。
④ 彩磁椿文茶碗 :1963年(昭和38年)作の茶碗です。
出光美術館所蔵。
値段についてなんですが、数万円から数百万円のものなど作品によっていろいろとあります。
例えば、ヤフオクでの板谷波山さんの作品の平均落札価格は12万円くらいになっています。
代表作として上で紹介した4つは美術館などが所蔵しているものなので値段はとんでもない価格なのではないかと思います。
ちょっと想像がつきません。
というか、調べてもよくわかりませんでした。
値段がつけられないレベルなんだと思います。
経歴
下館尋常小学校を卒業されています。
卒業後は上京して成城学校(陸士予備校)に入学されました。
しかし、陸軍士官学校を受験し、体格検査で不合格となり軍人志望を断念されたんです。
このように板谷波山さんは最初は職業軍人を目指していました。
不合格後に本郷の下宿近くの河久保正名さんという洋画家の画塾に通うようになります。
しかし、その途中で芸術に目覚めてしまい東京美術学校彫刻科に入学されたんです。
大学では岡倉天心さん達に学びました。
東京美術学校を卒業後、1896年(明治29年)に金沢の石川県工業学校の彫刻科の主任教諭となり、陶芸の指導を担当します。
これをきっかけにして本格的に作陶を始めます。
この翌年には最初の号である「勤川」を名乗り始めます。
また、開成予備校で彫刻、そして攻玉社中学校で図画を教えていました。
私立中学の美術教師をされていたんです。
大学卒業後は東京と金沢で彫刻科の教諭をされていました。
石川県工業学校を辞職した後は家族とともに上京します。
1903年のことです。
再び上京して陶芸家を目指していたからです。
そして、現在の東京都北区田端、当時の東京府北豊島郡滝野川村にものすごく粗末な家と窯場小屋を作って作陶の研究に励みます。
この頃は、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)で教えていたんですが、生活はかなり苦しいものでした。
塩味だけのすいとんに野草を入れて食べていたりというひどい食生活でもありました。
また、4人目の子供が生まれたのもその頃なんです。
1906年(明治39年)に初窯を焼き上げ、いい結果を得ました。
この頃に生涯用いることになる「波山」という号に改めました。
日本美術協会展での受賞、帝国美術院会員、帝室技芸員、1953年(昭和28年)には陶芸家として初めての文化勲章受賞。
そして、1960年(昭和35年)には重要無形文化財保持者(人間国宝)の候補にまでなります。
人間国宝に関しては辞退されました。
自分は単なる伝統文化の継承者なんかではなく芸術家であるという自負が辞退の理由のようです。
予想はしていましたが、さすがにすごい経歴です。
葆光釉(ほこうゆう)とは?
葆光釉(ほこうゆう)とは板谷波山さんが独自に創り出したものです。
これは釉薬(うわぐすり)なんです。
これを使った超絶技法によって、従来のものとは異なり、ソフトで微妙な色調や表現が可能になりました。
表面の仕上げに葆光釉が使われるんですが、今現在でも再現不可能といわれているんです。
そう言われているとなおさら作品を見たくなってしまますね。
でも、おそらく実物を見ても管理人のようなド素人にはおそらくテクニックのすごさはわからないでしょうね。(笑)
そういえば、生まれ故郷の茨城県にある波山記念館に、この葆光釉の開発資料が残っているそうですよ。
映画について
板谷波山さんの生涯をテーマにした映画があります。
それが「HAZAN」。
2004年に公開されました。
監督は五十嵐匠さんで、主演の板谷波山さん役は榎木孝明さんが演じました。
この「HAZAN」という映画は、ブルガリアのヴァルナの国際映画祭でグランプリを受賞しています。
生い立ちと父親と母親
父親は板谷増太郎善吉さんといい、醤油醸造業と雑貨店を営む旧家である板谷家の主人でした。
商才だけでなく文化人としてもたさいであったということです。
母親は宇多(うた)さんといいます。
板谷波山さんはこの2人の三男となります。
兄弟がどんな方かも気になりますね。
簡単ではありましたが、生い立ちについてでした。
プロフィール
最後になりましたがプロフィールを紹介して終わりにします。
名前(号):板谷波山(いたやはざん)
本名:板谷嘉七(いたやかしち)
生年月日:1872年4月10日(明治5年3月3日) 1963年(昭和38年)10月10日に東京都で91歳で亡くなられています。
出身地:茨城県真壁郡の下館城下の田町(現在の筑西市甲866番地)
出身小学:下館尋常小学校
出身大学:東京美術学校東京美術学校(現在の東京芸術大学)彫刻科
「波山」という号は故郷の筑波山にちなんだものです。
生年月日で日付のズレがあるのを疑問に思うかもしれません。
日本では明治5年12月2日(1872年12月31日)まで旧暦の天保暦を採用していたんで西暦とはズレがあったんです。
お墓はJR山手線田端駅近くにある大龍寺の境内にあります。
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