こんにちは。
1957年に天城山で歴史的なことが起こりました。
学習院大学の学生であった大久保武道さんとその同級生であった愛新覚羅慧生(あいしんかくらえいせい)さんに関するものです。
2人はそれぞれ当時20歳と19歳でした。
その頃のマスコミなどのメディアの報道では「天国に結ぶ恋」と言われていました。
後ほど詳しく説明しますが、愛新覚羅慧生(あいしんかくらえいせい)さんは映画「ラストエンペラー」として知られる愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)さんの姪になります。
本記事はこの件についての詳細を解説するのが目的ではなく、愛新覚羅慧生(あいしんかくらえいせい)さんの妹さんに関するものです。
妹さんの名前は福永嫮生(ふくながこせい)さんと言います。
姉の天城山での件について歴史を覆す新証言をされたとかいうことです。
この件はすでに60年もの長い年月が経過しています。
新証言というのが非常に興味ありますよね。
そんなわけで今回は、福永(愛新覚羅)嫮生さんの今現在、結婚と夫と子供、そして子孫や愛新覚羅慧生さんとの関係も解説していきます。
プロフィールなどもそうですが、生い立ちや昔の若い頃なんかもすごく気になるところです。
では、早速本題へ!
福永嫮生と愛新覚羅慧生について
最初に福永嫮生(ふくながこせい)さんについてプロフィール生い立ち的なことを説明しておきます。
旧姓は愛新覚羅(あいしんかくら)といいます。
生年月日は1940年(昭和15年)3月18日ですから、今現在の年齢は77歳。
清朝の最後の皇帝であり満州国皇帝であった愛新覚羅溥儀さんの実弟である愛新覚羅溥傑(あいしんかくらふけつ)さんの次女になります。
上に書いたように父親は愛新覚羅溥傑(あいしんかくらふけつ)さんで、母親は嵯峨浩(さがひろ)さんという日本の侯爵家出身の方です。
嵯峨浩(さがひろ)さんには『「流転の王妃」の昭和史 幻の“満州国” 』という自らが著者の本があります。
この本は自伝なんですが、そのタイトルから自伝のタイトルから「流転の王妃」として知られています。
生まれは母親の出身地である東京です。
ちなみに、父親の出身地は北京です。
その後、父親のいた満州(現在の中国東北部)に渡ります。
1945年(昭和20年)に日本は戦争で降伏するわけですが、その時に満州国は解体します。
それで、父親と母親は生き別れ状態となります
福永嫮生さんは母親の嵯峨浩さんと一緒に1年4か月もの期間中国大陸を流転するという状況に。
そして、1947年(昭和22年)に日本に引き揚げてきます。
日本に引き揚げてきてからは母親の実家の嵯峨家で育つという生い立ちとなります。
その当時父親は、ソビエト連邦のハバロフスク、中国の撫順(ブジュン)やハルビンで収容生活を送っていたというじょうでありました。
そのため、日本に帰ってきた当初は連絡すらも不可能な状態にありました。
その後、中国の首相である周恩来さんから父親との文通が許可されました。
これは姉の愛新覚羅慧生(あいしんかくらえいせい)さんが周恩来さんに手紙を書いたことで実現されたものでした。
1957年(昭和32年)には、記事冒頭で少し説明しましたが姉と大久保武道さんが天城山で亡くなられます。
ここで学歴についても紹介しておきます。
出身小学校:学習院初等科
出身中学校:学習院女子中等科
出身高校:学習院女子高等科
出身大学:学習院女子短期大学家庭生活科
学歴は上のように小学校から大学までずっと学習院です。
母親が侯爵家出身の方だからでしょうか?
皇族関係もそうですよね。
さらに生い立ち的なことを続けます。
1960年(昭和35年)には父親の愛新覚羅溥傑さんと16年ぶりの再会するを果たします。
父親は釈放され、その翌年に母親たちと中国に渡ったからです。
父親と母親は北京で生活を始めますが、福永?生さんは日本に戻ってしまいます。
そして、日本に帰化。
1963年(昭和38年)には再度中国へ行き、1年位の間父母と一緒に生活します。
この当時に余談ではありますが、こんなエピソードもあります。
経歴に関するものと言っていいかもしれません。
タケダ化粧品の新聞広告に出られたんです。
その後、ご結婚され子供さんが生まれます。
このことは後ほどまた解説します。
今現在は?
福永嫮生さんは今現在は兵庫県西宮市在住です。
その前は須磨にお住まいでした。
最近もニュースがありました。
今年2017年の7月のものです。
「ラストエンペラー」として有名な中国の清朝最後の皇帝である愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)さんと弟の愛新覚羅溥傑(あいしんかくらふけつ)さん、つまり福永嫮生さんの父親ですが、これらの方々の家族の足跡をたどった展覧会「日中のかけはし-愛新覚羅溥傑家の軌跡」が兵庫県西宮市にある関西学院大博物館で開催されたというものです。
そのニュースには福永嫮生さんが父親の書である「宿愛女家詠即興」に目をやっている画像も掲載されています。
ちなみに、「宿愛女家詠即興」は書家としても知られている愛新覚羅溥傑さんが1992年(平成4年)に最後の来日の時に書いたものです。
日中関係のことも記されています。
日中関係の最近の悪化を懸念する声も多いですが、福永嫮生さんによれば、両親の願いを感じてくれればいいと語られています。
このように今現在は、両親やおじの愛新覚羅溥儀さんたちが生きてきた時代に関する証言や自らのの体験、そして父親と母親から学んだことをベースとした日中友好や戦争体験の講演等で活動しておられます。
母親の著書「流転の王妃」の後日譚として「流転の王妃 愛新覚羅溥傑・浩 愛の書簡」も出されています。
また、2013年には両親の書簡などの遺品を関西学院大学に寄贈されています。
夫と子供と子孫
福永嫮生さんは1968年(昭和43年)にご結婚されています。
夫となられたお相手は嵯峨家と親交の深い福永家の次男の方です。
名前は福永健治さんといいます。
夫に関して妻の福永嫮生さんはこう述べています。
とてもユーモアがあって人望があった方だったと。
残念ながら、2007年に67歳で亡くなられています。
福永家は母親の妹さんである香淳皇后の女官の泰子さんの嫁ぎ先です。
5人の子供さんがいらっしゃいます。
息子さんであるとか娘さんであるとかのもっと詳細なことは今のところ不明です。
5人もいれば両方いそうなんですが。
子供さんの一人、息子さんか娘さんかわかりませんが、東大で勉強しながら愛新覚羅一族についての研究をされているという情報がありました。
ただし、これは2012年、つまり今から5年くらい前のものなので、今現在どうされているのかについてはよくわかりません。
また、2015年の情報では愛新覚羅維さんという東大病院の医師に関するものがありました。
「愛新覚羅」って名字がたくさんいるわけではないでしょうからもしかして娘さんとかお孫さんなのかもしれませんね。
よくはわかりませんが、名古屋大学の医学部を2007年(平成19年)にご卒業されていますから、単純に考えると今現在の年齢は34歳くらいになりますね。
この医師と愛新覚羅一族との関係も気になるところです。
あ~、愛新覚羅維さんにはFacebookがありました。
さらに、Amebaブログには「愛新覚羅ゆうはん」という方のオフィシャルブログもあります。
このブログには愛新覚羅一族の後裔、末裔、子孫などに関して詳しく書かれています。
興味のある方は要チェックです。
とにかく、福永嫮生さんには子供さんはいらっしゃるってことなので、子孫は続いていくってことですね。
でも、現在は愛新覚羅の直系の子孫に関してはラストエンペラーとして有名な愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)さんに子供がいなかったから存在しないのが事実のようです。
ここにすごく興味を持っている方が多いようですけど、直系子孫に関しては上に書いたことが真実のようですね。
コメント
テレビで愛新覚羅コセイさんが話されているのを見て何か懐かしく思っています。もちろんお目に掛かった事は無いのですが、妹さんのエイセイさんに私の母が学習院で英語を教えていました。当時、心中された事でショックを受けていました。コセイさんの話し方が私の母と同じでしたので懐かしく感じました。